玉ねぎの皮をむきながら語る作家として成功するまでの軌跡
読み終わったばかりの本です。ノーベル賞受賞作家でもあるギュンター・グラスの自伝『玉ねぎの皮をむきながら』。
まさに玉ねぎの皮を一枚一枚むくようにして、グラス自身の記憶の層を少しずつめくりめくり子供時代から作家としてデビューするまでを語ります。自伝という位置づけにはなっていますが、本の中で自分のことを「彼」とか「この彫刻家は」(グラスは作家でもあり彫刻家でもあります)とか三人称で呼び、自分自身の人生を他者として観察しているかのように描写しています。
ですのでいわゆる自伝、私はこんな少年だった、少女だった、私はこう思ってこう決断した、なんていう単調なものではなく、物語を読んでいるかのような面白い読み物になっています。
それは書き出しの段落にあるこの文でも象徴されています。
たとえば、「彼」が十二歳になってもまだ母親の膝に抱かれていたがったとき、何かが始まり、何かが終わったのだ、などと言ってみたくなる。しかし、いつ何が始まったとか、終わったとか、そんなにはっきりと言えるものだろうか?
こうして三人称で他者のことを語っているかのようなスタイルは、記憶というものが非常にあいまいであることと無関係ではないのかもしれません。語っているときに基にしている記憶は、何十年という時を経て歪められているかもしれませんし、別の記憶と断片がすり替わっているかもしれません。すると当時の自分と語っているときの自分を同じと見なす要素はありませんので、ある意味では他者という捉え方もできるのかもしれません。
ドイツの志願兵として第二次世界大戦で服役した過去から、その後美術アカデミーに入学して彫刻家を目指したこと、彫刻を作る傍ら詩人としての才能を認められ、さらに散文を書くようになるまでの経緯を、家族との別れと再会、女性関係の遍歴などとともに子細に語っています。
ただし当時からかなりの時を経ての執筆と考えられるため、もしかすると事実とは多少異なる要素も盛り込まれているのかもしれません。『ブリキの太鼓』に出てくるオスカル・マチェラートのような奇想天外なキャラクターを創造するグラスのことですから、それは十分に考えられることです。
あるいは『失われた時を求めて』のように、過去の中で時間の順番がまぜこぜになったり逆転したりして語られている部分もあるかもしれません。
この本を読むと、玉ねぎの皮をめくるようにして記憶をたどる「想起」の作業が、グラスの創作活動の源泉になっていることがよく分かります。
興味のある方は是非読んでみてください。