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『アサッテの人』――過去の文学賞受賞作品を振り返る、この一冊

 過去に呼んで面白かった文学賞受賞作品を振り返ってみたいと思います。諏訪哲史氏による『アサッテの人』。2007年に群像新人文学賞芥川龍之介賞を受賞しています。

アサッテの人 (講談社文庫)

アサッテの人 (講談社文庫)

 あちらこちらに未だ田畑を残す町並を、バスはのろのろと寝ぼけたように進んでいった。と、書いたところで不意にポンパと来た。

 これが『アサッテの人』の書き出しです。ポンパとは?――「ポンパ」の意味はこの時点では説明してくれず、話はそのまま続いていきます。

 次の文は書き出しから2文目。非常に長いです。あまりこんなに長い一文にはお目にかかれません。

――虚を衝かれた拍子に続く言葉を眼前から取り落とし、不様にうろたえる今の自分の面の皮などまだ捨ておけるにしても、……要するに、のっけからポンパと来られたのではこのまま小説を続ける気も失せるというもの、出端をくじかれるとはまさにこのことで、すでに胸中では語り手である「私」がとある冬の日の午後、駅から乗り継いだ市営バスに揺られて叔父の寓居をたずねてゆく様子がこれ以上なくありありと浮かんでおり、降りそうで降らない澱んだ曇天の下、いやいやながらやっつけ仕事に向かう「私」の不平顔、乗り合わせた二三の年寄りもさらに言葉なく、バスは役場、農協を過ぎ、病院前に来たところで残らず年寄りたちを降ろしてしまうと、最後部の座席に未だ一人乗っているのを知ってかしらでか、呑気な運転手のみるみる調子づくあきれた鼻歌、とこうしたさほど褒められるものでもない月並みなシチュエーションが、わきから順にあれよあれよと霧散してゆくのを両手振り回してかき集め、急いで紙面に結わえてしまおうと焦る間にもポンパの余波に押され流され漂うは我が家の自室、見飽きた机上の風景であり、かといって一行のみしたためた原稿を破り捨てる気概もあればこそ、むろん今の自分にはそれさえ及ばず、ただただ自らのふがいなさの前にいかんともする術見つからぬまま、ポンパポンパと相も変わらず魅せられたような自室のつぶやき、ときに「ポンパった!」の張り裂けるような叫びもろともに我を取り戻そうとする意志の垣間見えもするものの現に果たせず、自分はこのまま紙面に突っ伏して気を失うのではないか、これはつまり世にいうところの発狂に他ならぬのでは云々と、脱魂し高みから見下ろすようなもう一人の自分がまるで他人事のように思案に暮れている。

 長いですね。これほど句点がない文章に巡り合うことは少ないです。とはいえリズムよく言葉が継がれ、「いったい書き手の中で何が起きているのか?」と気になっているうちに文の終わりまで読んでしまいます。この一文は730文字ほどあります。これだけで新聞に掲載される中くらいの大きさの記事の分量があります。

 要するに、「書き手は思案に暮れている」ようです。ですがこれだけの言葉が費やされている状況をそう簡単に説明してしまってはいけませんね。

 ポンパの意味について考えてみましょう。

不意にポンパと来た

のっけからポンパと来られたのでは

 という表現から分かることは、ポンパは自分の意志とは無関係に、どこからかやってくるものであることが分かります。

 ポンパの余波に押され流され漂うは我が家の自室

 ポンパは唐突にやってくるものでありつつ、一瞬にして消えてしまう性質のものではないようです。殴られた後の鈍痛のようなものでしょうか。あるいは冷たいものを食べた時の「キーン」のようなものでしょうか。

 ポンパポンパと相も変わらず魅せられたような自室のつぶやき

 どこからかやってくるものである一方、この箇所を読むとどこか自分から欲しているような印象も受けます。

 ときに「ポンパった!」の張り裂けるような叫びもろともに我を取り戻そうとする意志の垣間見えもするものの現に果たせず

 この箇所を読んで連想するのは「テンパった」や勝負が終わったことを意味する「つんだ」などですね。書き手は自分の意思を取り戻そうと必死にもがいているわけですから、半ば意識が混然とした状態にあることが分かります。定義するのは簡単ではなさそうですが、なんとなくポンパのイメージが分かってきました。

 本作のタイトルに採用されている「アサッテの人」とは、語り手の叔父のことです。そしてポンパとはこのアサッテの人に関連する言葉であるようです。この本は語り手の叔父の人生に関する話です。

 「あさっての方向」とはまるで見当違いな方向に物事が運んでいる様子ですよね。それから連想するに書き手の叔父は常軌を逸した人、別の表現をすればぶっとんだ人ということでしょうか。この時点で私は非常に興味をそそられてしまいます。