BOOK LIFE

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玉ねぎの皮をむきながら語る作家として成功するまでの軌跡

 読み終わったばかりの本です。ノーベル賞受賞作家でもあるギュンター・グラスの自伝『玉ねぎの皮をむきながら』。

 まさに玉ねぎの皮を一枚一枚むくようにして、グラス自身の記憶の層を少しずつめくりめくり子供時代から作家としてデビューするまでを語ります。自伝という位置づけにはなっていますが、本の中で自分のことを「彼」とか「この彫刻家は」(グラスは作家でもあり彫刻家でもあります)とか三人称で呼び、自分自身の人生を他者として観察しているかのように描写しています。

 ですのでいわゆる自伝、私はこんな少年だった、少女だった、私はこう思ってこう決断した、なんていう単調なものではなく、物語を読んでいるかのような面白い読み物になっています。

 それは書き出しの段落にあるこの文でも象徴されています。

たとえば、「彼」が十二歳になってもまだ母親の膝に抱かれていたがったとき、何かが始まり、何かが終わったのだ、などと言ってみたくなる。しかし、いつ何が始まったとか、終わったとか、そんなにはっきりと言えるものだろうか?

 こうして三人称で他者のことを語っているかのようなスタイルは、記憶というものが非常にあいまいであることと無関係ではないのかもしれません。語っているときに基にしている記憶は、何十年という時を経て歪められているかもしれませんし、別の記憶と断片がすり替わっているかもしれません。すると当時の自分と語っているときの自分を同じと見なす要素はありませんので、ある意味では他者という捉え方もできるのかもしれません。

 ドイツの志願兵として第二次世界大戦で服役した過去から、その後美術アカデミーに入学して彫刻家を目指したこと、彫刻を作る傍ら詩人としての才能を認められ、さらに散文を書くようになるまでの経緯を、家族との別れと再会、女性関係の遍歴などとともに子細に語っています。

 ただし当時からかなりの時を経ての執筆と考えられるため、もしかすると事実とは多少異なる要素も盛り込まれているのかもしれません。『ブリキの太鼓』に出てくるオスカル・マチェラートのような奇想天外なキャラクターを創造するグラスのことですから、それは十分に考えられることです。

 あるいは『失われた時を求めて』のように、過去の中で時間の順番がまぜこぜになったり逆転したりして語られている部分もあるかもしれません。

 この本を読むと、玉ねぎの皮をめくるようにして記憶をたどる「想起」の作業が、グラスの創作活動の源泉になっていることがよく分かります。

 興味のある方は是非読んでみてください。

人望とは何か 『人望の研究』に学ぶ

 「人望」があるかどうか――これが仕事や生活に大きな影響をもたらします。職場で人望がなければ、周囲の協力を得られずに業務が思うように運ばない、管理者になっても部下が指示通りに動いてくれず問題を抱えるなど、仕事をする上での障壁が生まれてしまいます。日常生活においても友人や隣人からの人望がなければ、場合によっては自分が属しているコミュニティーからのけ者にされてしまうこともあります。特に日本社会で重視されているのが人望です。

 ですが、人望とはいったい何なのか。それが重要なことは確かに感じますが、人望とは何かを説明しようとすると、うまくいきません。その人望が何であるかを研究した本が、山本七平著『人望の研究』です。下記のような章立てになっています。


 1章 「人望」こそ、人間評価最大の条件
 2章 「人望のある人」とは、どんな人か
 3章 不可欠の条件――「九徳」とは何か
 4章 人間的魅力と「常識」との関係
 5章 儒教の「徳」とキリスト教の「徳」
 6章 「教なければ禽獣に近し」
 7章 機能集団における指揮者の能力とは
 8章 現代人が学ぶべき「人望」の条件

 山本は「人望」によって人を評価するのは、日本社会特有であると指摘します。西洋の民主主義社会では法(ルール)に違反しない限りは、どのような思想や価値観を持つことも自由であり、その思想や価値観によって多様に人を評価していると指摘します。対して日本では人々が同じような価値観を持ち、その価値観の中で人望があるかどうかを評価します。そしてその評価が仕事や生活に大きな影響をもたらします。

日本社会特有の評価の視点

 日本で人望が重視されるようになった背景として、山本は日本が歴史的に平等社会が根本にあった点を挙げています。社会のリーダーを選ぶ際に出身階級や血縁、宗教的権威が絶対的な条件とならない場合、人望がリーダーを選ぶ際の絶対的な条件になるといいます。人望があるかどうか、これは自分の生まれには関係がありません。つまり、誰もがリーダーになれることを意味します。

 人望は生まれながらの資質ではなく、習得するするもの、学ぶものです。そして人望がある人とはすなわち「徳」のある人だと説明します。

 山本の説明の中から、人望を得る上で重要だと指摘する要素の中から、一部を紹介しましょう。山本は朱子学の入門書『近思録』を引き合いに出して、「七情」を抑制することが重要だとします。七情とは「喜」「怒」「哀」「懼」「愛」「悪」「欲」です。

 これらの情を抑制せずに爆発させていては自分自身を滅ぼしてしまう。そのような人を徳がある人として周囲の人がみなすことはありません。これらの情を爆発される人は愚か者です。反対にこれらをうまく抑制する人は聖人となります。つまり徳のある人です。

 「徳」というのも漠然としては具体的にどのようなものなのか分かりにくい言葉です。近思録では行為に現れる九つの徳「九徳」を示しています。これらが徳のある人のふるまい、ひいては人望を得る人のふるまいということになります。

  1. 寛(かん)にして栗(りつ)――寛大だが、しまりがある
  2. 柔(じゅう)にして立(りつ)――柔和だが、事が処理できる
  3. 愿(げん)にして恭(きょう)――まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない
  4. 乱(らん)にして敬(けい)――事を治める能力があるが、慎み深い
  5. 擾(じょう)にして毅(き)――おとなしいが、内が強い
  6. 直(ちょく)にして温(おん)――正直・率直だが、温和
  7. 簡(かん)にして廉(れん)――大まかだが、しっかりしている
  8. 剛(ごう)にして塞(そく)――剛健だが、内も充実
  9. 彊(きょう)にして義(ぎ)――剛勇だが、義しい

 この記事の中ではごく一部しか人望の研究の内容をご紹介することができません。より詳細を学びたい人は、ぜひ実際に本を読んでみることをお勧めします。

 この本が出版されたのは1983年です。ですが内容は古びることがありません。40年近く前も2020年の現在も人望がリーダーの資質やコミュニティーの一員として活動する上で重要なことに変わりはありません。能力や結果重視の評価が重要視されていることは確かですが、最終的に人望がない人はいかに優秀であっても組織から見放されてしまいます。

 「勝って甲の緒をしめよ」ではないですが、組織の一員としていい結果を出しているときに、徳のある行動ができているかを確かめる意味でも、「物事がうまく運ばないなぁ」と感じるときに自分のふるまいを反省する意味でも読み直したい本の一冊です。

感想:スティーヴ・トルツ著『ぼくを創る要素のほんの一部』

 『ぼくを創るすべての要素のほんの一部』は、オーストラリアの作家、スティーヴ・トルツによる長編小説です。ブラックユーモアをまじえて語られる、常軌を逸した(変人)父子の壮大な物語です。


 こうして小説は始まります。

 悲惨な事故で嗅覚を失ったスポーツ選手の話は聞いたためしがないが、それは理由あってのことだ。今後の人生に生かしようのない苦々しい教訓を宇宙が僕たちに授けるためには、スポーツ選手は脚を、哲学者は頭脳を、画家は目を、音楽家は耳を、料理長は舌を失わなくてはならない。おまえはどうかって? ぼくは自由を失って、この妙ちきりんな牢獄にいる。

 こう語り始めるのは物語の中心人物の一人、ジャスパー・ディーン。ちょっと哲学的な語り口です。もう一人の中心人物はジャスパーの父親であるマーティン・ディーンです。語りはジャスパーだけではなく、マーティンの手記という形でも差し込まれます。マーティンの語りもかなりの分量を占めているので、息子ジャスパーの物語であると同時に、父親マーティンの物語でもあります。

さまざまな人生の矛盾

 父マーティンは頭脳明晰でありつつも、さまざまな思考が矛盾して混在する哲学家であり思索家。ひっきりなしに考えが浮かぶものの生活に役立つことはありません。人生の大半を無為に過ごしていると本人は感じています。息子のジャスパーに言わせれば“ろくでなしの変人”。ですがある面では父親を尊敬してもいます。学校の教育は“無意味”と批判して常軌を逸した独自の方法で息子を教育するものの、学校に行くことは大事だと息子には学校をやめさせようとしません。矛盾した方針の下、息子は父のようにはなりたくないと思いつつ、意に反して父のようにひねくれた人間に仕上がっていきます。

 一人の人物の中における矛盾した思考、矛盾した言動や行動をありのままに描いてるところが面白さの一つです。矛盾を認めつつ受け入れる、ということが人生哲学のようになってしまっています。

壮大な物語と自我との対峙

 ジャスパーの叔父であり、マーティンの弟であるテリー・ディーンは全オーストラリアを騒然とさせる事件の首謀者です。一部のオーストラリア国民からは英雄扱いされています。このテリーの存在がマーティンを苦しめてもいます。“テリーの兄“という存在としてしか認識してくれないからです。

 マーティンはこう悩みます。

わたしはだれなのか? どうして自分を定義できる?

 マーティンの思考は複雑で矛盾しています。もしかしたらこう問いかけもするかもしれません。「そもそも自分を定義することに意味はあるのか」。人間はいつかは死ぬ存在であることもマーティンを悩ませています。

 テリーの犯行やマーティンが巻き込まれる事件など、派手な出来事をきっかけに話が展開する一方、より詳細に語られるのはマーティンやジャスパーの思索、内面との対峙です。単に自我の話だけに終始すると物語が単調になり、哲学書のように小難しい話にもなってしまいますが、派手な出来事と登場人物の内面をからめて語られますから、全体を通してとても面白く読むことができます。

錯綜する視点

 ジャスパーの語りが中心ですが、マーティンの語りも織り交ぜられています。面白いのは同じ出来事について双方の語りが取り入れられていることです。ジャスパーの語りの後に同じ対象についてマーティンの語りが入り、実はジャスパーとマーティンの見方は全く違っていた、といったことも判明します。視点によって事実は全く異なることを反映しているという点で面白い構成になっています。

 ハードカバーで600ページほどありますから長いことは長いです。ただリズムよく場面が切り替わり、語り口はユーモアに富んでいて面白いので、好きな人は最後まで飽きずに読めるのではないかと思います。

うまく働く方法――『私の生活技術』より

 本棚の中に埋もれていたアンドレ・モーロワ著『私の生活技術』という本を見つけました。いつ読んだのかも覚えていないしどこで購入したのかも覚えていませんが、「またいつか読み直そう」と感じたことはかすかに覚えています。

私の生活技術 (土曜文庫)

私の生活技術 (土曜文庫)

 本のタイトルからも何となく分かる通り、人生に関する指南書のようなものです。構成は大きく以下のように分かれています。

  • 考える技術
  • 愛する技術
  • 働く技術
  • 人を指揮する技術
  • 年をとる技術

 巷には 「人とのうまい付き合い方」や「出世する人しない人」のような、生活や仕事をする上でのコツを紹介する本があふれています。ただそのほとんどは小手先のテクニックに焦点を当てていて、あまり読む気になりません。そういう話を参考にしすぎると、また別のテクニックがあればそっちを試してまたこっちを試してと繰り返し、結局は何が本当に必要なことなのか分からなくなってしまいます。

 あまり表面的なことで右往左往せずに軸となる考え方を一本持っていた方が、ぶれずに毎日を過ごすことができます。ただ、あまりに哲学的になりすぎると日常的な生活からかけ離れてしまいます。ともすれば社会生活を人並みに送ること自体がどうでもよくなってしまう懸念もあります。

 と、ここで本の話に戻りましょう。私の生活技術には「まったくその通りだ」「そうしてみよう」と思うことが真面目に書かれています。ただし、まったくその通りだと思うということはある意味では正論を突いているということでもあります。「それは分かっているけど、そううまくはいかないんだよなぁ」と感じるかもしれません。

 例えば「働く技術」の章から少し紹介しましょう。

うまく働く方法
一.いくつかの可能な仕事のうちから、一つを選択すること。――一人の人間の肉体と頭脳の力は、ごく限られている。あらゆることに手を付けたがる人は、決して何ごともなすことはできない。世にあまりにも多く見かけることであるが、いったい自分が何に向いているのかがはっきりしない人が、「私は大音楽家になれるかもしれない」といったかと思うと、「商売をしたらうまくいくかもしれぬ」といいだし、またつぎには「政界に入ったらきっと成功するだろう」といったりする。ちかってもいいが、そういう人はせいぜい音楽愛好家ぐらいにしかなれない。実業を始めたら破産するし、政界では人に蹴落とされる。

 その道で名の通ったプロフェッショナルがテレビをはじめとしたマスメディアで紹介されることがありますね。そういう人たちに共通しているのは、その道一筋何十年と、長年一つのことに打ち込んでいる点です。2年や3年、5年程度で神のように扱われる立場まで上り詰める人はほとんどいません。長年の間にいいことも悪いこともあり、その中でも脇道には大きくそれずに一つのことに執着してきたからこそ、段々に次のステップへと進む方法を見つけてこれたのだと思います。もちろん、ただ一つのことを長年続ければいいというわけではないでしょう。同じことを飽きずにやり続ける継続力はまずこの場合に必要なことと思われますが、それだけではただぼんやりと毎日が過ぎてしまうだけかもしれません。モーロワ氏はこうも書いています。

ナポレオンは、戦術の要はある一点に最大の力を集めることにある、と教えている。人生の戦術もまた、攻撃点を一つ選び、そこに力を集中することにある。

 私は30代半ばを過ぎましたが、もうこの年齢になると自分の向き不向きというのは完全に見えています。20代ではまだあまり明確には分かっていなかったかもしれません。もちろん10代や20代で自分が力を集中すべきものに気付く人もいるでしょう。そういう人はある意味では幸運といってもいいかもしれません。

 何かを成し遂げたいと思うなら、進む道を選んだ上で徹底してそこに自分のエネルギーを注ぐべき、ということですね。やはり書かれていたのは当たり前と言えば当たり前のことですね。こういうことを真面目に考えて本にしたためたということも一方では興味深いです。読み物としても面白いですから、また別の機会にこの本の中から別の話をご紹介したいと思います。

私の生活技術 (土曜文庫) [ アンドレ・モーロア ]


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『アサッテの人』――過去の文学賞受賞作品を振り返る、この一冊

 過去に呼んで面白かった文学賞受賞作品を振り返ってみたいと思います。諏訪哲史氏による『アサッテの人』。2007年に群像新人文学賞芥川龍之介賞を受賞しています。

アサッテの人 (講談社文庫)

アサッテの人 (講談社文庫)

 あちらこちらに未だ田畑を残す町並を、バスはのろのろと寝ぼけたように進んでいった。と、書いたところで不意にポンパと来た。

 これが『アサッテの人』の書き出しです。ポンパとは?――「ポンパ」の意味はこの時点では説明してくれず、話はそのまま続いていきます。

 次の文は書き出しから2文目。非常に長いです。あまりこんなに長い一文にはお目にかかれません。

――虚を衝かれた拍子に続く言葉を眼前から取り落とし、不様にうろたえる今の自分の面の皮などまだ捨ておけるにしても、……要するに、のっけからポンパと来られたのではこのまま小説を続ける気も失せるというもの、出端をくじかれるとはまさにこのことで、すでに胸中では語り手である「私」がとある冬の日の午後、駅から乗り継いだ市営バスに揺られて叔父の寓居をたずねてゆく様子がこれ以上なくありありと浮かんでおり、降りそうで降らない澱んだ曇天の下、いやいやながらやっつけ仕事に向かう「私」の不平顔、乗り合わせた二三の年寄りもさらに言葉なく、バスは役場、農協を過ぎ、病院前に来たところで残らず年寄りたちを降ろしてしまうと、最後部の座席に未だ一人乗っているのを知ってかしらでか、呑気な運転手のみるみる調子づくあきれた鼻歌、とこうしたさほど褒められるものでもない月並みなシチュエーションが、わきから順にあれよあれよと霧散してゆくのを両手振り回してかき集め、急いで紙面に結わえてしまおうと焦る間にもポンパの余波に押され流され漂うは我が家の自室、見飽きた机上の風景であり、かといって一行のみしたためた原稿を破り捨てる気概もあればこそ、むろん今の自分にはそれさえ及ばず、ただただ自らのふがいなさの前にいかんともする術見つからぬまま、ポンパポンパと相も変わらず魅せられたような自室のつぶやき、ときに「ポンパった!」の張り裂けるような叫びもろともに我を取り戻そうとする意志の垣間見えもするものの現に果たせず、自分はこのまま紙面に突っ伏して気を失うのではないか、これはつまり世にいうところの発狂に他ならぬのでは云々と、脱魂し高みから見下ろすようなもう一人の自分がまるで他人事のように思案に暮れている。

 長いですね。これほど句点がない文章に巡り合うことは少ないです。とはいえリズムよく言葉が継がれ、「いったい書き手の中で何が起きているのか?」と気になっているうちに文の終わりまで読んでしまいます。この一文は730文字ほどあります。これだけで新聞に掲載される中くらいの大きさの記事の分量があります。

 要するに、「書き手は思案に暮れている」ようです。ですがこれだけの言葉が費やされている状況をそう簡単に説明してしまってはいけませんね。

 ポンパの意味について考えてみましょう。

不意にポンパと来た

のっけからポンパと来られたのでは

 という表現から分かることは、ポンパは自分の意志とは無関係に、どこからかやってくるものであることが分かります。

 ポンパの余波に押され流され漂うは我が家の自室

 ポンパは唐突にやってくるものでありつつ、一瞬にして消えてしまう性質のものではないようです。殴られた後の鈍痛のようなものでしょうか。あるいは冷たいものを食べた時の「キーン」のようなものでしょうか。

 ポンパポンパと相も変わらず魅せられたような自室のつぶやき

 どこからかやってくるものである一方、この箇所を読むとどこか自分から欲しているような印象も受けます。

 ときに「ポンパった!」の張り裂けるような叫びもろともに我を取り戻そうとする意志の垣間見えもするものの現に果たせず

 この箇所を読んで連想するのは「テンパった」や勝負が終わったことを意味する「つんだ」などですね。書き手は自分の意思を取り戻そうと必死にもがいているわけですから、半ば意識が混然とした状態にあることが分かります。定義するのは簡単ではなさそうですが、なんとなくポンパのイメージが分かってきました。

 本作のタイトルに採用されている「アサッテの人」とは、語り手の叔父のことです。そしてポンパとはこのアサッテの人に関連する言葉であるようです。この本は語り手の叔父の人生に関する話です。

 「あさっての方向」とはまるで見当違いな方向に物事が運んでいる様子ですよね。それから連想するに書き手の叔父は常軌を逸した人、別の表現をすればぶっとんだ人ということでしょうか。この時点で私は非常に興味をそそられてしまいます。

読書を継続させる本選びのコツ

 読書をするとき、皆さんはどのようにして読みたい本を探しているでしょうか。初めのうちは書店に出向いて最初の数ページを読んだり解説を読んだりして、どの本が自分の興味・関心にあっているかを確認して購入する本を探しているかもしれません。

 ただ読書量が増えていくと、そうして一から読みたい本を探していてはなかなか次に読む本を確保し切れなくなってしまうものです。次に読む本をうまく探せないと、せっかく習慣づいた読書もどこかで途切れてしまうこともあります。

 私はだいたい三通りのやり方で次に読む本を購入しています。

本の中に登場する本

 一つは、読んでいる本の中に登場する本を読むこと。本の中に別の本が登場するというのは研究書などの専門的なジャンルの本であればよくあることですが、実は小説の中でも別の本が登場することは少なくありません。例えばひと昔前、2020年の現代はもう存在しない日本の文豪たちの小説を読んでいると、西洋の作家の名前が頻繁に登場します。ドストエフスキースタンダールフローベール、ポー、哲学からもニーチェサルトルなど有名な世界の文豪です。ちなみに、私がこれまで読んだ本の中で最も登場する回数が多かったのはセルバンテスの『ドン・キホーテ』ではないかと思っています。もちろん数えているわけではないので、あくまでも印象です。

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 当然昔の作家たちが読んでいた本は、その作家たちよりも一昔前の作家たちが多くなります。これは時代が変わっても同じことが言えます。現代の作家の本を読んでいると、西洋の作家たちを小説の中で挙げていた一昔前の作家たちの名前や著作が登場します。その中には既に自分が読んだ作品もあれば、読んでいない作品や作家も出てきます。読める量には限度があるのでその全てを読めるわけではありませんが、その中で気になったものを順々に読むうちに自分の読書の守備範囲が広がり、さまざまな角度から読書を楽しめるようになります。

同じ作家やテーマにこだわる

 もう一つの方法は、気になった作家やテーマの本を何冊も続けて読むことです。これは読書好きの人なら自然にやっている人も少なくないと思います。本の中に登場する本を読むのが“横”に広げる方法だとすれば、特定の作家やテーマの本を続けて読むのは“縦”の方向です。深さといってもいいかもしれません。その作家が長く作家として活動している人であれば、作風の変化に気づくこともあります。

世界の文学賞

 もう一つの方法は文学賞を受賞した、あるいはノミネートされたタイトルの中から気になる本を読むことです。これは特に海外の作品を探す上で役に立ちます。国内の本であれば何かしらテレビやインターネット上で話題になっている、あるいは文芸誌などで取り上げられているなど、作品を探す機会はところどころに落ちています。しかし海外の本の話は国内のものほどは入ってきません。イギリスの「ブッカー賞」やイスラエルの「エルサレム賞」、アメリカの「ピューリッツァー賞」などを受賞した中から選ぶと、読み応えのある作品に出会うことができます。過去にブッカー賞を受賞しているイアン・マキューアンジュリアン・バーンズマーガレット・アトウッドなどは小説好きの人たちの間ではお馴染みの作家名なのではないでしょうか。

アムステルダム (新潮文庫)

アムステルダム (新潮文庫)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

ポール・オースターの小説が面白い理由 破滅志向の奥深さ

常識にとらわれない

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wikipediaより

 ポール・オースターは現代アメリカ文学を代表する小説家、詩人です。アメリカ文学好きな私にとっても大好きな作家の一人です。1947年生まれですから、2020年現在ではもう70代になっています。

 アメリカの名門コロンビア大学を卒業後、作家として成功するまでポール・オースターはさまざまな活動をしています。といっても、華々しい活動ではなく、いずれも泥臭く「名門を卒業した人がなぜ?」と思うようなことばかりです。例えば大学院終了後にタンカーの乗組員として船乗りになっています。そしてフランスにわたって翻訳で生計を立てたり、米国に戻ってからはアナログな野球ゲームの開発をしておもちゃ会社に売り込んだりもしています。作家として成功するまで「常にお金の問題があった」と、自伝の中で語っています。

 無謀ともいえるさまざまな経験を経たからこそ、面白い小説を次々と発表できるようになったのでしょうか。おそらくその経験と無縁ではないはずです。私がポール・オースターの作品を好きなのも、物語の主人公に破滅的な傾向があり、日常の生活から逸脱した面白さを見せてくれるからでもあります。

破滅的な物語

 例えば代表作の一つ、『ムーン・パレス』を見てみましょう。物語の書き出しはこうです。

それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった。僕は危険な生き方をしてみたかった。とことん行けるところまでいって、いきついた先で何が起きるか見てみたかった。

 どうでしょう。若い頃から常識にとらわれない生き方をしてきた作家自身の考え方が書き出しに表れているかのようです。もちろんムーン・パレスはフィクションですからそうとは言い切れません。ただ彼の作品には、どのような生き方をすれば正しいと言えるのか、それには答えがないのだ、と考えさせられる要素がたくさん含まれています。破滅的な物語を読んで一時的にでも日常生活から抜け出したい、と思う人は是非ムーン・パレスを読んでみてください。

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

物語の中に物語

 ポール・オースターの作品を特徴づける要素はいろいろあります。破滅的な要素はその一つでしかありませんし、全ての作品にその傾向があるわけではありません。

 物語の中に物語が入っていることも、ポール・オースターの作品の中に多く見られる特徴です。これはどちらかというと小説の形式的な話です。マトリューシカを思い浮かべるとよいでしょう。物語を開いたと思ったら、その中にはまた別の物語が入っていて、場合によってはさらに別の物語が展開します。小説の基本形は視点をどこか1点に絞って、あるいはただ一人の主人公の視点から世界を見ることですが、その視点が混在しているといってもいいかもしれません。『オラクル・ナイト』をはじめいくつもの小説の中にその技法が使用されています。

 私は、これはある意味では世界を客観的にとらえる手法なのではないかと感じます。もちろん私たち自身、世界を自分の視点でしか見ることはできないのですが、自分の視点ではとらえられないところで世界は動いています。世界の動きと自分は無関係だ、と言い切ることはできませんが、世界を自分以外の視点で把握することは非常に困難です。その意味では、物語の中にさらに物語があるというのは、自分という存在から脱して世界を見る面白さがあるのです。ポール・オースターの小説については語るべきことがたくさんありますので、また別の機会に紹介したいと思います。

翻訳版の面白さ

 それとポール・オースターの小説を紹介する上で忘れてはならないのは、翻訳です。その多くは翻訳家で東京大学の名誉教授でもある柴田元幸氏によるものです。日本語が非常に面白く、読みやすく翻訳されています。原文と翻訳は内容は同じであっても使用する言語が違いますから、そっくりそのまま作品をコピーした、というわけにはいきません。柴田氏による翻訳も素晴らしいですから、ポール・オースターを始めて読む際は柴田氏の翻訳による作品をまずは手に取ることをお勧めします。